リチャードジノリ・グランデューカ アンピールC S L
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11352円
リチャードジノリ・グランデューカ アンピールC S L


サイズ:100cc
素材:陶磁器
※モニターの発色の具合によって実際のものと色が異なる場合があります。
お店で グランデューカを 見たお客さんが 言われます。
美しいですね。
私は お答えします。
コレは 創窯者 カルロ・ジノリ侯のお眼にかない マリアテレジアさんに 贈られた逸品です。コレを 美しいといわれる 貴方のお眼は 時空を超えて 侯やカイサリンのお眼眼と 一体です。
現存する ジノリは 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエからヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。当時はメディチ家のフィレンツェを首都とするトスカーナ大公国でした。ジノリ創窯の2年後 メディチ家の血統が絶え ハプスブルク=ロートリンゲン家「ロレーヌ家出身の神聖ローマ皇帝兼トスカーナ大公(元ロレーヌ公)フランツ・シュテファン(フランツ1世)とハプスブルク家のオーストリア大公兼ハンガリー・ボヘミア女王(元皇帝)マリア・テレジア夫妻に始まる家系)」が後を襲いました。ロートリンゲン家は第二次ウィーン包囲においてオスマントルコを敗走せしめた英雄カール5世の末裔であり、ハプスブルク家にとっても深い縁があったことから、カール5世の孫との縁組が決定される。ロートリンゲン公レオポルトの次男フランツ・シュテファンが婚約者候補となり、またカール6世もフランツのことを大変気に入り、好待遇を受けるようになった。マリア・テレジアは6歳の時に15歳のフランツと出会い、憧憬はやがて愛情へ変わり、1736年、アウグスティーナ教会で2人は婚礼をあげた。当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚であった。結婚に際しフランツは、フランス王ルイ15世の理解を得るため、領地をフランスへ割譲し 代わりにトスカーナ公の地位を得た。帝立ウィーン窯の オーナー・ハプスブルク王家 マリアテレジア王妃(トスカーナ大公国王妃でもある)に カルロ・ジノリ侯が 白磁と 当時流行のジャポネズリ絵付けの 完成度を誇って お礼に献上した逸品が グランデューカ・金彩です。当時 白磁戦争は 国王の威信を賭けたもので 金に飽かして 賞賛される銘品逸品が 求められました。今に至って三世紀 貴方の眼にするグランデューカ・金彩には 計り知れない 歴史と批評に耐える 美と 底知れない 価値が あるのです。
イタリアで初めて磁器焼成に成功したのは 1720年 ベネツィアのヴェッツィ兄弟窯でした。兄弟は マイセンから ウィーン窯の前身デュ・パキエ窯を経た アルカニストを名乗るフンガーの売り込みを 信じて受け入れました。フンガーは マイセンのカオリンを まんまとせしめ 初めて磁器焼成に成功しました。(彼は 以後 報奨金を求めて 転々とするのですが カオリンに恵まれず 一度も成功しておりません。ロイヤルコペンハーゲンへも 売込みをかけましたが いかがわしい噂のある男として 受け入れられませんでした。流れ流れてロシア・ペテルブルグで エリザベータ女帝に 1744年 王立窯を 開かせました。ここでもカオリンに恵まれず 4年で追放されました。皮肉なことにその直後に モスクワ近くで カオリンが 発見されました。)フンガーが 唯一 成功したヴェッツィ窯も マイセンのカオリンを止められて 10年を経たずして 廃窯しております。
次に 現存する ジノリが 1735年 フィレンツェ郊外の ドッチアに カルロ・ジノリ侯によって 開窯されました。侯は 帝立ウィーン窯の前身 デュ・パキエ窯からヨハン・ツィルンフェルトを受け入れ 湧き上がる ヨーロッパ白磁戦争に 堂々と参戦しました。
ハプスブルク王家や ナポレオン治世下を経た 両シチリア王国フェルディナンド1世治世下のナポリ窯 (カポデモンテ)を 1834年ジノリが買収。モールドを継承した正式な継承ですから 復刻にナポリ王冠窯印 Ginori を施したものは 正当です。ただここからが問題ですが ジノリは ナポリを訪れる観光客への 街道沿いのお土産屋からの注文依頼で モニュメント的なオブジェ,ベースや キャンドルスタンド等のモールドを作り ナポリ王冠窯印Ginoriを 施した贋作を作ります。お土産業者は 仕入れ価格の6倍でも売れるのに味を占め よりアンティックに見せる為 Ginori の施印まで外させたほどです。只ジノリも面白くないのか ナポリ王冠等とても雑で 一目でお土産品ですよと判ります。日本の清水で売られる中国製の清水焼?に 「清水」としか書かれてない手合と同じです。「ジノリ社は (マリア・アマリア)カポデモンテ窯の継承を言いますが 正式にはナポリ窯(マリア・カロリーナ)のカポデモンテを継承したのです。直 この不名誉なカポデモンテ贋作製造について ジノリ社史は あえて触れておりません。」
当初 灰色味がかっていた白磁も 1790年頃からリモージュのカオリンを 用いる事で完璧な白磁を完成させております。
1869年には リチャード社を合併して 今のリチャードジノリ社になりました。(とジノリ社史はいいますが 真相は ジノリ家内の領地争いの中、ミラノの陶芸家、アウグスト・リチャードに 身売りしたのが 社名の頭から判ります。)特筆されることは 1920年頃 アート・ディレクターに ジオ・ポンティを招聘して新しい芸術性豊な 作品群を ものにして 名声を高めたことです。
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